ダムダム日記

ぼっちの孤軍奮闘ブログ

二種類の褒め方と才能主義

 

僕は才能があるという前提で生きている。良い悪いとかでなく物心つくときから、斜に構えて頭がいいつもりでいた。他人が失敗しているのを見て頭悪いなあと思ったことも多い。ただ、結果的には現在没落した環境でくすぶっている。本当に頭がいいわけではないのだ。しかしなぜこんな考えが頭にまとわりついているのだろう。

 

何か出来た子供を褒めるとき、方法が二種類あるという。

一つは「これが出来るなんてよく頑張ったね」、もう一つは「これが出来るなんてすごいね」、まあ多少言い方にバリエーションがあるだろうが、このような種類がある。

要は出来たことに関して、その努力を褒めるのか、才能を褒めるのかという違いである。

そしてこれらどちらの言葉をかけられたかによってその後の子供の行動が変わってくるという。

才能を褒められた方はより確実に成功できるもの、そして努力を褒められた方はより挑戦的なものを選択するようになるのだ。

 

褒められるということは、自分がある評価軸の中にはめられることだ。まだ成長途中の児童であればよりその評価軸を受け入れやすいだろう。

才能を褒められた子供は、出来ることに対して評価されることを学んだ。つまり失敗は評価されない。結果的により成功するようなことにのみ固執することになる。

逆に努力をすることを褒められた子供は、成功するかどうかに関わらず、まず努力すること挑戦することに重きを置くようになる。

 

これらを考えるとまさしく、自分はこの才能の方に、目を向けている。

思い返してみると親にそもそも褒められることがなく、早生まれで低身長童顔な自分は周りからかわいいという遺伝子的要素をしばしば評価された。これらの結果、ステータス、才能といった評価軸で生きるようになったのではないか。

その評価軸の中ではぼっち、不登校、陰キャ、こもりがち、今現在の僕のこれらの要素は自分自身の自尊心を著しく傷つけるものとなった。

 

生きている中で、学歴や年収、スクールカーストなど様々な評価軸を無意識に自分の中に取り入れている。

 生活する上でこれらの評価軸はある程度の効果はあるだろうが、はたして信奉するだけのものなのだろうか。

自分なりに一日を精一杯生きられればそれで自分を認められるようになりたい。〜〜大学だからとかそういうのではなくて。

すごい編入試験前の言い訳がましさもあるのだけど、もちろんやれるだけのことはした上で、結果に関わらず自分の努力に堂々とありたい。それが結果的に施行回数を増やし成功につながるのではないかな。

今日はやれたことを振り返って自分を褒めてみた。こそばゆい気持ちだけど、成果よりも努力する自分を評価できる人間になりたい。

 

id:nyarumekuさん

少なからず環境や遺伝的要素は今に影響しているだろうしそれらを把握できたら最高ですね。それが正確には出来ないから、一応の指標として結果に固執してしまうのかもしれません。

ブコメありがとうございます。